保育のエッセンス

多くのこどもたちと過ごす中、保育に携わる者として痛感させられたり、学ばされたり、
考えさせられたりすることがたくさんあります。そんな中、「園だより」に掲載した記事の中から、
親御さんたちに「これは伝えたいな」と思うことを少しずつ掲載していきます。

 


日常の関係を
どう築くかで、
成長が変る。

異年齢で過ごす、本当の良さ。

 三歳以上の子供たちは、組の枠を越えて二階で一緒に生活しています。先日の運動会も、年少〜年長の子供たちが一緒に力を合せていましたね。いつも以上に色々な関わりが見られました。年上の子が年下の子の手を引いて園と城山公園を往復したり、並ぶ場所に誘導したり、綱引きで綱の持ち方を教えてあげたり。
 大きい子が小さい子を助ける…どの園でも見られる、異年齢が関わる姿です。


 
大人の価値観を安易に持ち込まない

 「大きい子が小さい子を助ける」と聞くと「素敵だな」と思うかも知れません。でもそれを大人が推奨すると、『よけいなお世話』が始まったりするので、子どもの姿をもっと深く捉えなければいけないなと思います。
 年長児が年少児の服を着せたり靴を履かせたりと、身の回りの世話をしてあげる園があるそうです。それで、小さい子の経験、成長の機会は、どうなるでしょう。 
 折り紙をしている時、「作って」と頼まれ、折ってあげたら喜んで、また「作ってね!」と頼ってきます。これは優しさでしょうか。

 ある日、組の子が出席帳を見せて「今日のシールどこに貼るの?」。聞かれた組の子は貼る箇所を教えるかわりに、「こっちに来て」とシールを貼るコーナーに誘い、見本がある場所をさして、「これを見たらわかるよ」…。
 一緒に過ごしている間柄では、日々の関わりの影響が大きいのです。だから、そのとき優しく見えるような仕方でなく、真実のある関わりが大切ではないでしょうか。  

子供にも、真実な関わりを築く力がある

 園では、「それは友だちのためになっているの?」と考える機会を持つようにしています。「やってもらえた時は助かったって思うよ。でも、してあげてばかりいたらどう?」やろうとする気持ちが弱まったり、ずっとできないままになったりするかもしれません。「それでいいかな?」    子供たちは、靴下の匂いで持ち主が分るほど互いの事をよく知っています。小さい子は大きい子の姿をみて「大きくなったらこんな事ができるんだ」「やってみたい」と憧れ、実際にやろうとします。が、上手く行かない時も。大きい子は出来た喜びを知っているからこそ、「この子は今ここで困っているんだな」と自分の経験に照らして想像し、本当の手助けはどうしたらいいのか考える力を持っているものです。  こうして、大きい子も年下の子も、互いの姿が刺激となって、それぞれに心が育っていくのです。ここに、異年齢の子供が一緒に歩む素晴らしさがあるのですね。

 

保育の中で
行事ってなんだろう
なぜするのだろう

行事が子供のために為されているか

 ある職員は、学生時代にいった園での実習で、『音が揃うまで泣きながら鼓笛隊をやらされる子供たちと先生たちのピリピリした空気』に違和感を覚えたと言います。「これが本当に保育と言えるのだろうか」と。参観では絵を飾るため先生が描き方をいちいち指導し同じタッチで綺麗に仕上げ、『みんな上手に書けたね』と褒めていたとも。
 そこまで極端ではなくとも、子供たちに「できること」を要求したり、大人の目指す目標を達成することをもって、「子供の成長」と捉える保育がまだまだなされています。保育の世界では、これを「古い保育」と称し、保育の質の高める必要性が叫ばれています。


 
当園にとって特に大きな行事は、運動会とクリスマスでしょう。たとえばクリスマス。プレゼント作りに夢中になっていたり、音楽を流すと誰ともなくステージで踊りだしたりする子供たち。年長児の行う聖誕劇の練習はみんな表情が生き生き、他の子の視線もステージに吸い寄せられる…園ではそんな子供たちの心の動きが、いつも自然と溢れている気がします。

 このように、あおばの子供たちは、行事のあるなしは関係無く、色々な新しい事に取組み、毎日運動を楽しみ、劇遊びを楽しみ、アトリエでは材料や作り方を考え自分だけの作品を作っています。その子の活動が充実し深められる環境づくりに、保育の力が注がれているのです。大人が賢明に声をかけ、何かを練習させて結果を出していく。そういう行事は、今の子供たちにとっては百害あって一利無しとも言われます。
 それなら行事なんて必要ないのでしょうか。

行事は目的でなく手段  

あおばの運動会には、年長児が行う運動あそび「レッツチャレンジ」があります。それにあたっては、大人が「さかあがりができること」とか「竹馬に全員乗る」などと勝手に目標を決めません。その子が挑戦してみたいことを色々楽しんでみて、「運動会には、これをやりたいな」と自分で目標を決めます。子供の主体性が発揮される道を必ず用意するのです。
 さらに「できる」ことがいいという価値観を押しつけず、「一生懸命にやるとかっこいい」と、子供たちの意欲に目をとめます。これは全部、この乳幼児期にしか育たない、大切な力だからです。

 子供の心が十分に動くことや、子供なりに考えながら一歩一歩進んでいけるよう、十分な時間を用意することも大切です。行事が終わった後もその続きで遊びが展開し、さらに盛り上がっていく…これは、子供が心から楽しんで取り組んできた証しですね。
 行事では、一つのことに向かってみんなの気持ちが合わさっていくことで、より大きく心が動きます。みんなと一緒にするからできる大きな経験も行事の一つの持ち味。 クリスマスのステージは、まさにみんなで作り上げる〝作品〟になっています。一人一人の『楽しい』が合わさって、子供たちのどんな力が発揮されるか、それがとても楽しみなときとなっても居ます。

 大人の計画主導の行事が、いまだに多い現状があります。その中で、望ましい行事の在り方を常に検証し一つひとつ見直すことから、今の子供たちにとって本当に成長の機会となる行事は、初めて作り上げられていくのです。

 

幼児と学童では
教育の仕方が
大きく違います

乳幼児期は環境に応じて遊びます

 暑い季節には、園庭で過ごす時間の合間にお茶を飲んだり昆布を食べたり(水分、塩分やミネラル補給)します。小さい組の子どもたちも、合間を見てはデッキで「お茶をする」のです。そんな小さな子どもたちのために、長さが九十センチほどで高さの低いベンチを四つ用意しました。外でも、ちゃんと腰掛けがあったほうがいいねと、これに並んで座って「お茶の時間」です。ところがそのベンチ、さっそく子供たちは一列に並べて橋にしたり、横に倒して囲いにしたり、砂遊びのテーブルにしたり、お茶の時間以外もフル活用…『それ腰掛けなんですけれど』。でもなんでも遊び道具にしてしまうのが幼児期の子供たちの特質です。


 
幼児にあった環境と活動があるのです。

 例えばせっかくの広場の真ん中に木が生えていたら、サッカーや野球をしたい小学生には邪魔ですが、幼児なら、その木を遊びの中に取り込んで盛り上がります。国の新しい教育・保育要領が屋外の領域を運動場では無く園庭と規定したのは、そのためです。

 幼児は、まわりの環境に応じ、今そこにある物と関わって成長する〜これは幼児期独特の姿。園の環境が、多様で応答性の高い(どんな働きかけも受け止めてくれる)ものであれば子供の経験は豊かになります。その代表は『自然』です。  学校では、机と椅子が並ぶ画一的な教室や広くて何も無い体育館・運動場などの『器』を用意します。小学生は活動に応じて『器』にその時々必要なものを盛り込み、環境に依存しないで活動するからです。器に線でフィールドを作りルールに沿ってするスポーツも、小学生から取り組むのが有効。学校と園とで環境や活動の発想が全く異なるのは、こうした発達段階の違いからきているのです。

  幼児にあった環境と活動があります。大切なのは、子供が過ごす場所に多種多様なモノがあり、いつでも、どんな方法でも触れて試せること。子供が見つけるモノとの〝意外〟な関わりを大切にすることが、その子らしい個性豊かな成長につながるのです。  保育参加も始まり、子供たちの普段の様子を見るよい機会です。子供たちといっしょに楽しみながら過ごしてみてください。

 

「育てる」と「世話する」
…この似て非なるもの

人間は、自分ですることで育ちます


 
 ある日、ゆり組での集まりで「お風呂のとき自分で身体を洗う人いますか? 入る前にパジャマや下着を自分で用意していますか?」「してる!」という声多数の中、周りを見てハッとする子が…「いつもママにしてもらっとる」。
 子供は小さい頃から意欲を見せますが、できないだろうと大人が手を出していた流れがいつまでも切り替わらず、つい大人がやっていたな…ということはありませんか?「保育園ではそんなこともできるんですか?」「家では全然自分でやらないんです…」そんな声も聞かれます。
 
子供の視点に立って見直す。

子供の視点で生活を見直してみると分かることがあります。 自分でやりやすいようになっているか。
わかりやすくなっているか。
 たとえば…

園カバン、帽子、制服の支度をする
 ◎子供が届く棚やカゴを準備し、家に帰ってきたらそこに片付け、朝は自分で支度する。
 ×高い所で手が届かず、いちいち大人に頼まないと進まない【銀行窓口方式】
 ×大人のペースで手を出す【小姑方式】
 
保育園に行く服を自分で選ぶ
 ◎園用の服とお出かけ着を分け、園用の服をカゴや引き出しに入れておき、朝自分で好きなものを選ぶ。
 ×大人が全て選んでセットしておく【旦那様方式】
 ×大人が選んで着せる【着せ替え人形方式】
 ×届かない所にあり自分でできない【銀行窓口方式】
  「自分でやらないなぁ」の背景に、自分でできない理由が隠れています。大人にしてもらうと自分でやるときに経験し身につく色々な力が育たず、またやりにくい環境では上手くできずやりたい気持ちがしぼんでしまいます。
 0、一歳児でも、自分で選んだり出し入れすることに興味津々、むしろ自分でやりたい!のです。その気持ちを伸ばすには「子供が自分でできるように環境を整えること」がカギです。できると生活が充実し、活動が広がります。
 「お世話」と「育てる」はまったく違う行為。意欲や自主性は、この時期にこそ大きく育つ、人間の生きる力なのです。

 

楽しさは
成長のナビゲーター

遺伝子に刻まれた成長の仕組み


 
先人たちは「遊びはこどもの仕事」と表現しました。親たちからも、家でぶらぶら過ごしていると「外で遊んできなさい」と言われたものです。これは、こどもにとっての遊びが、大人にとって「働くこと」と同じ様に重要な営みであることを示しています。

させられることは、楽しくありません。
子供にとっての遊びは、大人で言えば天職や生きがいのようなものです。自身の成長や発達にとって今、その時期に必要なことを『楽しい』と感じ遊びとして取り組むのです。楽しいと言っても、何かはしゃいだりふざけたりすることと違い、夢中になって黙々と真剣に取り組み、もっとやりたいと感じる、それは生きるための本能的なものなのです。

 体の様々な機能、感覚を養うことから、人の気持ちを想像したり自分を表現したりする内面的な力をつけることにいたるまで、人としてのあらゆることが遊びから得られます。特に乳幼児期は、大人から言われたりさせられたりしていることでは、その大切なものが得られないのです。ちなみに集団で行う○○教室、○○競技、順位を付けて競わせることや人に見せるためにひたすら練習する行事などは、子供の成長に逆効果だと言われています。夢中になれる楽しさを感じているかどうか、それが、今必要なことのバロメーターなのです。

たっぷり楽しめる時間があるかがカギです。
 子供たちは、登園後、身支度をしてから遊びに向かいます。慣れないうちは支度や気持ちの切り替えに時間を要することもあります。成長に欠かせない遊びの時間をたっぷり確保するため、『早めの登園』が子供たちの充実した園生活のための第一歩です。二歳以上のクラスの場合、九時には遊び始められるように登園してくださいね。

 

エプロンは何のため?

なぜエプロンをするのだろう?


 
看護師さんは白衣、お相撲さんはまわし。 では保育者は…エプロン?
たしかにテレビに登場する保育者は、例外なくエプロン姿。でも、どうして?
今から十年ほど前、私たちも「なぜ?」と立ち止まり、考えました。
 
 
なぜエプロンをするのだろう?
 
 炊事や家事でのエプロンなら分かりますが、年中、一日中するのは不思議です。
 保育者のエプロンには~衛生面、洋服の汚れ防止、ポケットが便利、他に体形隠しという作用?もありますが、ほとんど保育者の都合で、こどものためではありません。
 
エプロンのマイナス面
 保育者がこどもの前で話す時に、たとえば大きなクマさんエプロンを着けていたら?…子供の気をひけるかもしれませんが目の前にキャラクターがちらちらして落ち着きません。何よりも、必然性のないエプロンを漫然としている姿勢・感覚や画一的な雰囲気が、こどもの感性、創造性を養う保育園にふさわしいの?
 
惰性でのエプロンはやめる
 お昼ご飯の時には、エプロンを着けます。その変化を、小さなクラスの子は目ざとく見つけて洗面所へゴー。ご飯の時間だ!とわかり、その前に手をあらおうと自ら行動しているのです。
 それまで当たり前だった、エプロンを一日中着る習慣を思い切ってやめた時、私たち自身の服が気になり出し、保育中の服装に関して意識が薄かったと反省もさせられました。昔、保育士養成校の先生が、こどもの前できれいな服装をしなさい、と教えてくださったのを思い出します。
 たかがエプロン一枚ですが…子どもの育ちや人格を尊重する、ささやかな一歩がそこにあります。
(2013年ほほえみポスト 4月号より)